バイクと旅 自由に関する随想

バイクが象徴するイメージの一つに「自由」というのがある。そして僕らは「自由」を求めて旅に出る。もちろん人によってバイクに乗る理由はそれぞれだし、旅に出る理由も様々だ。それでも僕らはバイクに乗って旅に出るとき、確かに「自由」を感じている。「自由」の意味もまた人によって様々だけれども、旅に求めるそれは日常からの脱却ではないだろうか。
社会人というのは「不自由」な生き物だ。また、成人して社会人にならないならば、社会人である以上に「不自由」を強いられる。だからこそ、バイクに乗っている時間、旅に出ている時間は、僕らにとってかけがえのない時間なのだと思う。
行きたい時に行きたい場所に行く、ただそれだけのことだし、ガソリンを気にしたり、距離や時間を気にしたり、お金を気にしたり、別に何にも縛られずに好き勝手に振舞えるわけではない。暑さ寒さ、雨、気候の変化にもめっぽう弱い。むしろ電車の旅に比べれば気苦労は多い方だろう。
けれども、朝目が覚めて旅に出ようと思うとき、夜仕事が終わって旅に出ようと思うとき、不思議と心は軽い。走り出せば、風を感じる開放感、この世界の音や色を肌で感じる感覚が心地いい。アクセルを開けて、ひたすらここではないどこかへ。
人というのは、身体という器に縛られて、物理と時間の制約を受ける。何人たりとも、そこから抜け出すことはできない。人は、昔からこのテーマについて考えてきた。宗教というのは、本質的にはこの問題に対する答えとして存在している。
でも僕らは、神様なんか頼らなくても、バイクに乗って駆け出せば、自由を手に入れることができる。
知らない場所に行く。そこには「僕」と「バイク」以外は存在しない。他はすべて「見知らぬ場所」「見知らぬ人」「見知らぬ社会」僕の世界の外側のものごと。僕は僕とバイクしかいない世界で、気ままに過ごす。きれいな景色を見たり、美味しいものを食べたり、温泉に入ったり。
つまるところ「自由」というのは関係性の限定なのではなかろうか。「僕」という存在は時間軸の上を不可逆的に進んでいく中で、関係性という「僕」起点での意味を持った要素を積み重ねていく。そうして僕の世界は出来上がる。それは、望むものばかりでなく、いやおうなしに形成される世界である。

バイクで旅に出る時、僕の世界は僕だけのものである。それが、自由の意味だと思う。

別に、そんな難しいことを思ってバイクに乗るわけではないのだけれど。

スポンサーリンク

シェアする

フォローする

スポンサーリンク